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プロジェクト委員会から提示した“8つの日本の美意識”
- ネクストマルニ・プロジェクト・プロデューサー/黒川雅之
*ネクストマルニ・プロジェクト委員会からデザイナー、
及びコンペティションへの参加者へ参考として提示しているものです。
1. 細部に全体性がある/ “微”
細部こそ全体を包括すると考えている。人でいえば、人が神の定めた罪の意識ではなく、恥や義理などの他者への気持ちや気遣いを持つことで、細部である個人が社会性をもつことで全体が調和するという考えである。
空間についていえば、それぞれの人の位置からの、ここ(HERE)とあそこ(THERE)という具体的な一つずつの場所に世界のすべてが濃縮されていて、又、時間においても、それぞれの今という瞬間に過去も未来も包含されていると考えるのである。
西洋には「細部に神が宿る」という思想があるが、日本では細部こそ全体性を持つ、細部が全体の一部ではなく全体そのものを包含すると考えている。数奇屋[*1] を宇宙を濃縮する空間と考えるのがそれである。数奇屋[*1] は室内から庭に、庭から外の風景にいたるまで放射状に世界を取り込もうとしており、そのことが宇宙の包含につながっている。
社会では個人が、集落ではそれぞれの建築が、空間ではここやあそこが、時間では今という瞬間にこそ全体が含まれる。
数奇屋[*1] の庭は外部であるのにかかわらず、内部空間と同じように一つ一つの細部に全神経が傾けられている。庭の片隅さえも世界と同じ価値を見いだしている。
数奇屋[*1] はティーマスターの席から室内、庭、外部、遠景、そして宇宙まで串刺しするかのように風景のすべてを内部空間に組み込んでいる。
部屋から縁側、庭、そして塀の外の風景にまで、部屋の一点から層状に世界が拡がっていく。空間が外に拡がることで逆に宇宙までのすべてを包含すると考える日本の空間認識がある。一点に世界が濃縮されるのだ。
2. 細部の並列的集合/ “並”
細部に全体性があるからこそ、細部だけの集合でその細部が間合いをとって調和することができる。細部が全体の部分であるならばインフラストラクチャーを介在させる必要があるのだが、並列的な組織では細部だけで共存できる。並列的とは階層のないフラットな構造なのだが、このような組織では個々の細部が全体の犠牲になることがない。
神などの価値の規範をもつ構造とは異なって、日本の価値の構造は人と人の間の気遣いや恥などが規範をつくっている。これは並列的な関係を維持する仕掛けである。このように物と物も適度な間合いをとって調和するのである。
インフラストラクチャーを持つ西洋の都市の構造をツリー型と表現するならば日本的な集落は並列的なネットワーク型である。人の脳の組織はニューロンの並列的なネットワークであり、インターネットのつくりあげる世界もまた個人の並列的なネットワークである。並列的関係はデモクラティックである。
日本の空間はそれぞれのすべての細部が等しく重視されていて、多様なそれぞれの細部からの視野が並列的に共存する空間の仕組みを持っている。
人の脳の細胞(ニューロン)はバラバラな独立した単位となっていて、並列的である。それらがその都度、刺激によって手をつなぎ合う。
妹島和世の設計になる、金沢21世紀美術館は丸いガラスの外壁の中に矩形の展示室が並列的に集合する形になっている。内部は展示室が間合いをとって集合した、まるで集落のようである。自在に展示室をつないで展示会を開催できる。
3. 細部がその周辺に生み出す気配/ “気”
建築には二つの原点がある。一つは洞窟でありもう一つは柱である。洞窟はその中に確実な空間をつくっているが、柱はその周囲に不確実で曖昧な気配という空間をつくり出す。日本の建築はこの柱のつくり出す空間として成立している。そのために日本の伝統的建築には部屋の概念がなく全てが襖や障子で仕切られた不確かで曖昧な連続性を持った空間となっている。人も物もこの気配を持っており日本の物や人の認識はその周辺の空間も含んでいる。人や物がかもし出すこの曖昧な雰囲気を日本人は最も大切にしている。確固たる自我を持たず、自立性を持たないように感じる日本人の意識はこの気であり、気配を重んじ、他者との気配の連続性を重んじているからであろう。間はそこから発生する感覚である。
近代建築はドミノシステムなどに象徴される壁を構造から解放した、柱と梁の構造を生み出したがその原点は日本の木造建築のこの柱が生んだ気の空間である。日本の伝統的建築のように、柱と梁だけで構築し、洞窟のように空間を閉じ込めたりしないで、気配だけでつくりあげる建築の形式は始めから自在という性質を持っていた。木造文化の生み出した美意識である。

建築には洞窟と柱の二つの原型がある。柱はそのまわりに気配をもっており、その気配に囲まれて人は安心をする。
西洋の建築は洞窟にその原点があり、日本の建築は柱に原点がある。日本の伝統的建築は柱と梁のつくりあげる気配が生み出した空間である。
気配が生み出した空間は洞窟のように内外の空間を対立させず、流動的である。
4. 細部の気配がつくる相互の調和/ “間”
日本における社会の調和は人の他者への気遣いや恥じらいなど人が持つ他者への配慮によってつくられる。人が人と共存、調和するためには、一神教的社会では神が絶対的価値の規範となるが自然や物にも神を発見する、多神教的な日本ではそのような規範は生まれない。人と人の共存はこの他者への配慮が調和の鍵になっている。恥を嫌い、和を尊び、義理を重んじて、大きくは自然との融和を悦ぶ日本人には人との、物との、自然との間合いこそ生きる重要な規範となる。
人と人の関係と同じように物と物、音と音、図と図は相互に間合いを大切にして配置される。それによって世界全体の調和を得ようとするのである。この調和のための空間が間である。
間は人や物や音や図がその周囲に伴う「気遣い」「色香」ともいうべき気配がつくりあげる。恥や和の意識が人の発する気配をつくるのである。その気配が他の人や物や音や図の気配と反応して調和をつくる。絶対論が支配する西洋的世界にはこの間という概念は生まれにくい。
世界の部分の名称もその存在もその周縁が不明確である。山はその終わりが曖昧であるし、人もその周縁に気配やテリトリーの感覚を持っていて、人も物も周縁が明確な境界を持たない。この周縁の気配があつまって間を形成する。
尻はその終わりが明確ではない。尻は背中に曖昧に連続する。女性のからだで美しいのはこの意味と意味の曖昧になる間である。
長谷川等伯の描いた「松林図」は周縁の曖昧な二つの松林の並列的な配置によって、その間の余白が深遠な空間を出現させる。間の力である。
5. 隠すことで華麗にみえる/ “秘”
日本人は他者への気遣いで相互につながる全体的調和を大切にしている。それ故、表現はそれを受け止める相手のこころの中に何が生まれるかで判断しようとする。美や感動の表現は主張することではなくそれを受け止める人のこころの中に生まれるように企てることだと考えている。どんな作品も表現する人の主張通りに相手は読み取ってくれる訳ではない。読み手は読み手の思想や気分でその主張を読み取る。これは作品の創作への読者の参加であると考えることができる。大切なのは受け止める相手の心の中に生まれる思想や思想の側にあると考えるのである。
こうして、主張を押え、隠すことで却って読者が自発的に創造し、創作してくれるのである。そこから表現は明白であることより曖昧にして、受け手の想像力を刺激し、受け手の主体的な発想の力で描かせようとする。世阿弥[*2] の「秘すれば花」とはこのことを言う。
日本の表現の曖昧さや空間に見る陰翳の曖昧さはこの思想と関係している。
日本の家屋の内部は極限まで削ぎ落として華奢な線材による空間となっている。すだれというパーティションも曖昧に空間を仕切っていて霧の中に似た輝くような神秘性を持っている。
日本の民家の典型的な内部空間である。明かり障子という可動な木と紙でできた外壁が背景となってそこに見える物も人も逆光となって美しい。床も逆光に輝いて華麗な内部空間をつくりあげる。
黒川雅之デザインの腕時計である。限界まで単純化しているがその反面、曖昧なすりガラスとミラーのフェースによって霧の中のような曖昧で、精緻なディテールを持っている。
6. 世界は始めから調和している/ “素”
日本人は自然は始めから調和していると考えている。日本人の自然に対する姿勢は対立的ではなく、時に危害を加え時にめぐみをくれる自然と適度な間合いを大切にしている。日本人が他者との間にとる間合いに共通する感覚である。
間合いをとりながら、人もその自然の調和の中にあり、「あるがまま」を素晴らしいと受け止めるのである。従って、加工を好まない、できる限り自然のままに使おうとする。
着物は布のまま、ほとんど僅かな切断と縫製だけでできているし、風呂敷は一枚の布でどんな形のものも包むことができる。数奇屋[*1] は庭と連続的に内外の分節がない。イッセイ・ミヤケ[*3] の「一枚の布」という服のシリーズは一枚の布に切目を入れて袖を付けただけのものである。
四季の恵まれた気候や風土がこの「そのまま」という姿勢を生んだ背景となっているのであろう。数奇屋[*1] が自然に対して対決する姿勢がなく、庭も数奇屋[*1] の一部と考えるのはこの「始めから世界は調和している」という根源的な意識から来ているのであろう。
日本の家屋は木と竹と土と紙でできている。素材をそのままに用いて自然と融合することを願っているかのようである。補修された壁面もありのままの美しさとして生かされている。
左は日本の着物の型紙、右は西洋の洋服の型紙である。黒い部分を廃棄するのだが、日本の着物は廃棄する布の部分が殆どない。着物は布のありのままの形を用いてつくられているのである。
三宅一生のデザインになる、「一枚の布シリーズ」である。一枚の布に二つの切目を入れて袖を付けただけの殆ど手を加えないでつくられた衣服である。
7. 抗わないで流される美/ “仮”
人生も宇宙も生々流転してとどまらず、はかないものだと考えている。この感覚は四季の気候を持つ日本の風土から来ているのに違いない。春はやがて夏となって生命の眠る冬が訪れるという変化から生まれた美意識であろう。
しかもその生々流転の感覚は決してネガティブな意識ではない。好んでこの万物の流転に身を任そうと考えるのである。
石などの永久的な素材を用いず、木や竹や土や紙という燃えやすく、朽ちやすい素材を好んでつくられた家も、又その空間の外部との連続性や可動性を持つ襖や屏風の仕掛けも定まらないことを受け入れる姿勢からきている。
仮という感覚は自然との適度な間合いをとりながら、自然の流れに身を任す積極的な生き方の姿勢なのである。とり合えずこうなのだというあきらめではなく、すべてが仮なのだという宇宙観、秩序感から来ている。
ありのままを受け入れて自然の流れに身を任すことを美しいと考える美意識がそこにある。自然に対決して生きようとする西洋の思想とはかけ離れた姿勢である。
数奇屋[*1] は木と竹と土と紙を中心に用いて、自然と融和する生々流転する建物である。永久を求めるのではなく、壊れ朽ちるのも悦びとする心の姿勢がそこにはある。
日本家屋の典型的な内部空間である。外壁である明かり障子と同様に、内部の間仕切りも可動な紙によってできた襖である。内部空間全体が外部にまでつながる仮の空間と考えられている。
黒川雅之のデザインによる立礼(椅子式の茶道の卓)である。日本の家屋を裏返したかのような明かり障子による家具である。木と紙でつくられ、光をいれてそれ自体があかりにもなっている。和紙のテーブルトップは汚れたり破れてしまったら貼り替えるのである。
8. 破壊こそ創造である/ “破”
自然のあり方に身を任せて抗わない生き方から生まれた美意識とともにもう一つの姿勢がある。それは人がつくりあげてきた既成概念や思い込みに反抗し、破壊してこそ創造的でありうるといいう考えである。この「破」の美意識があって日本のここに述べた他の美意識に活力をもたらし、生命を刺激するのである。
「序破急」や「守破離」[*4] という思想の中の「破」は革命の仕組みである。ここでの「破」はそれまでの流れを破り飛躍させる仕掛けである。
生命的なものはこの反抗的なものによって刺激され、破壊によってこそ実現すると考えている。
カタストロフィーとは破壊の瞬間に生まれる生命的なものをいうが、16世紀のなかばに千利休が生み出した数奇屋[*1] のなかにはこの破綻こそ美という思想がある。モデュールをずらしあばら屋を引用し、素朴な素材や表現を用いたのは豪華で秩序を重んじた武士階級への反抗のメッセージであった。
「破」は日本の思想の背後に潜む生命的仕掛けといえる。
数奇屋[*1] は商人であった千利休が贈った武士階級のトップであった豊臣秀吉への反抗のメッセージであった。支配階級への破壊的なメッセージが日本の重要な美意識をつくりあげたのである。
桜は満開の瞬間ではなく、その散り際に日本の美意識がある。自然のうつろいは死とともに新しい次の季節の訪れを象徴している。
倉俣史朗のデザインによる椅子である。存在することへの反抗ではないかと思わせる、強い破壊的な意志が見える。
*1:数奇屋/16世紀半ばに千利休によってつくられた建築の形式
*2:世阿弥/14世紀半ばに生まれた能楽論書「風姿花伝」を著している
*3:イッセイ・ミヤケ/日本を代表する衣服のデザイナー
*4:「序破急」や「守破離」/序破急は雅楽などの日本の音楽で用いられた加速の理念であり、美意識。守破離は修業の3つの段階で教えを守り、それを破って自分を発見し、独自の世界をつくりあげていくことを意味している
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